「目に見えるモノだけが全てではない」
そういう言葉を良く聞く
やまたけ自身もそうなんだろうなと思う時は多い
いや、思う時が「多かった」という過去形の方が正しい
2023/11/21
4年前には滑った転んだライドをやっていた時期である
今年は猛暑であったせいなのか、積雪になるのが遅い
天気も良いし走るかぁ~!と言いつつも
ロードはもう寒くて乗ってられない(根性無し
ファットバイクの出番である
と、なると足が向かうはちょっとしたオフロード
落ち葉が風に揺られてカサカサと音を立てている
小鳥のさえずりも耳に心地良い
足元を何かが物凄いスピードで駆け抜けていった
こいつらも冬眠の準備か
全道的にクマの被害が絶えないが
早い所、山に帰って眠って欲しいものである
一昔前までは、一緒に冬眠してぇなぁ~って本気で思っていたやまたけ
しかし今となっては「早く根雪にならないかなぁ~」と
まるでウィンタースポーツをやる人のような思考回路になっている
冬も自転車に乗るだけである
久しぶりに旭川駅に駐輪して青葉のラーメンを食べに行く
狭い店内は人でビッシリ、さすがに悠長に写真なんぞ撮ってる場合ではなかったが
本当に「心の落ち着く味」である
癒し系ラーメンランキングの上位に食い込む安定感
食後に駅前イオンをブラついてみたが
全く物欲が無くなってしまったのか
最後まで悩んだのは三方六のかぼちゃ味であった
しかし自転車で来ていると買い物に躊躇する
駐輪場からグルっと常磐公園までサイクリングロードを走る
ココでふとした光景に目が留まった
何度も何度も通っているサイクリングロードだが
こんなに白樺が生えている事に初めて気が付いたのだ
「だから何なのだ?」とやまたけ自身も思ったのだが
何故、今、このタイミングで目が留まったのかがどうにも判らない
とりあえず、写真だけは撮っておこう
走りながら考えてみる
「今まで何故気付かなかったのだろう?」
秋を終えて冬に向かい、葉が落ちたからだ
緑の葉が鬱蒼と茂っている夏には確かに気付けなかった
それは正に「教科書通り」の答えであろう
しかしながら、腑に落ちない
何故なら「白樺を求め探している」という瞬間が
微塵も無かったという事実である
探してもいないモノへの気付き
考えながら走る事、数十分
とても正解とは言い難いが、
一つの自分が納得できる結論に辿り着いたやまたけ
それはつまり「そっちを見ようとしていなかった」という事なのだろう
夏には「前に進む事」しか考えられないサイクリングロード
脇に生える木々に心奪われる事も無かったのであろう
季節は流れ、葉も落ち、先を急ぐロードバイクに跨っている訳でもない
ふと見た木々に白樺を認識したという事だけの話
とりあえず、自分でも何言ってるか判らなくなってきたが
人は「たとえ偶然であっても見えたモノから、何かしらの意識や価値を見出す」
って事なのだろうって事である
「カラーバス効果」という心理学用語がある
これはやまたけの商売上でも良く聞く話である
要は「気になると余計に目に付き、更に意識をする」って話
例えて言えば、購入を検討しているクルマが
意識し始めた瞬間から、街に沢山走っている気がしてヤバい
そんないわゆる「あるある」な心理現象である
人の行動には「意思」が必要不可欠である
しかし、当然と言えば当然なのだか
見えていないモノを意識はできない
見たモノからしか意識は産まれず
意識しなければ行動に繋がらない
意識して「見よう」としなければモノは見えない
そうだとするのであれば
自ら進もうと思う先を「見る」という行動が
自分の人生をコントロールする為に必須なのではないか?
希しくも人は、ついつい「見ている方向に向かってしまう」と言われる
よそ見をしていると、無意識にそちらに向かってしまうというソレである
自分の向かいたい未来がある方角を「見る」という行為は
きっと人生において不可欠なのであって
「目に見えるモノだけが全てではない」という言葉は
未だ「どこに向かおうとしているのか」が
ハッキリ理解できていない、いわゆる
「予定は未定」な人への道先案内の為に
もっともらしく用意された詭弁なのではなかろうか?
やまたけはそう、今日思ったのである
数日前に行われた、旭川界隈のサイクリスト勢の忘年会
何かしら、自分の進むべき道が判っていたり
一定の方角を理解している人達の集まりである
見えている先の景色には一転の曇りも無く
後ろ向きな人間など皆無である
行きたい道の先に生きたい人生がある
サイクリストとは本当、
進まないと倒れるだけに
前向きな人間しかいない
やまたけにとって
今、見えているモノ、ヒト、コトが全てであって
見えてもいなければ、起こってもいない事象に
いちいち一喜一憂している暇なんぞ無いというのが
正直な所なのかも知れない